男大迹皇子(「おほどおうじ」後の継体天皇)が、坂中井(「さかなかい」坂井郡)の麻留古乎加(「まるこのか」現在の丸岡の地)に住んで居られた時、そのお后の倭媛との間に2男2女がおられた。第2皇子が椀子(まねこ)皇子といい、皇子の御胎衣を丸岡城の乎加の南に埋めた所と言い伝えられいる。いつしか、この地は麻留は丸、乎加は丘陵の岡、つまり、丸い岡のある地、現在の丸岡の地名になった。また、この皇子の名前から「まるおか」となったという説があります。
福井市足羽山の継体天皇石像(左)と振媛想像画(右)
西暦507年から531年の24年間在位。第26代継体天皇として、即位されました。継体天皇は聖徳太子の曾祖父に当たります。
西暦450年頃、応神天皇の血をひく、近江の国(滋賀県)高島宮の「彦主人王」に嫁いだのが、高向郷高田地区(現在の丸岡町高田)の振媛、皇子の誕生後、父が亡くなり、母は郷土の高田に戻って、皇子を養育、皇子は福井平野、坂井平野の治水事業に功績し、54歳で継体天皇となられました。男大迹皇子の治水事業を讃えるために、現在、福井市内の足羽山には継体天皇石像が建っています。九頭龍川の恵みによって発展した福井平野、坂井平野は先人たちの多くの苦労によって跡を感ぜずにはいられない。西方の三国方面をじっと見つめる石像は約1世紀、私たちの生活を見守っています。
現在、丸岡城公園に保管されている石棺で振媛一族の石棺と言われています。 丸岡町牛ヶ島地区の白山神社から出土したとされています。
現在の丸岡町高田地区はその昔、振媛が男大迹皇子を養育し、立派な政治家として育てたふるさと「高向の宮」跡と言われ、現在振媛神社の場所が、坂井市の史蹟になっています。
長畝から山久保集落へ向かう途中の右手の新しい道路を女形谷に向かうと、右手に祠がある。これは、その昔、継体天皇が上京するときに大和からの使者を迎えた接見の場所と言われています。